平成に残す, 最初で最後の自分語り

はじめに

自分のことを好きなだけ話す Advent Calendar 2018 - Adventar 12/17の記事です.

はてなブログはほぼ初めてで, Markdownで記述しています. 支離滅裂な文章ですが, どうかご容赦ください.

自己紹介

大学入学まで

インターネットで使うハンドルネームというものを全く固定してこなかったので, とくに何と呼ばれるべきかもわかっていません1. とりあえずm6mと呼んでください.
東北出身ですが, 高校は関東圏の男子校を受験して入りました. 後悔してもしょうがないのですが, 2年次には人間関係で大きな失敗をして2, 自分が嫌いになりました.
親が私を留学に行かせたのは, そういったことがあったのも理由の一つかもしれません. もっとも, 最大の理由は広い世界を見てほしいということだったらしいですが3.
そういったわけで, まずは部活を引退した3年次の夏にサマースクールに送り込まれました.
このころは全くというほど, 留学に乗り気ではありませんでした. というのも, 当時の自分は内部進学で大学に行き, 夢に見た大学生活4を送ることが楽しみだったからです. 親としては, このサマースクールで感覚を掴み, そのままボーディングスクールへと1年間5通わすことを想定していました.
高校生活が終わりに近づいた頃の11月, 結局私は留学を決意しました. 高校のシステム上, 1年間休学してその間に留学するという形式でした. 決意の理由は正直覚えていません. たぶん一年後に日本に帰って大学進学する前に, なにか目新しいスキルでも身につける期間にしよう, とでも思っていたはずです 6.
このころから, 日本で多くの人たちがTwitterやLINEを使い始めたと記憶しています 7. LINEは使っていましたが, Twitterはやりませんでした. 当時(今も), SNSに苦手意識があった(ある)からです 8.

留学先は英国でした. 英国の高校は2年制で9, 3-4科目を選択し, 各年次末にセンター試験のようなものを受けます. この成績と, 自己ステートメント10で大学が入学を許可したりしなかったりします.
もちろん当時の英語能力は今に比べて壊滅的だったので, 理系科目(数学・普, 数学・難, 化学, 物理)だけを選択しました.
結果としては, 数学・普は割と簡単でした. 内容としては三角関数, 微積, 力学, 統計といったところです. 
物理も, 日本での内容とは色が異なっていて, 素粒子学の入り口みたいなことや, 電磁気学などをやりました.
もっとも, 一番驚いたのは, 日本から持ってきた化学の新研究が大活躍したことでしたが.
そんなこんなで, 試験を受けましたが, 結果はかなり良かったです.
この頃から, 英国の大学を目指すようになりました.

試験が終わって, 日本に帰国しました. このとき, 元の高校に復学届, あるいは退学届を出さなくてはなりませんでした.  

いろいろ悩んだ挙げ句, 私はその高校を退学することにしました.

留学2年目になっても, やることは前の年と変わりませんでした. 人間関係で特に深刻に悩むこともありませんでした.
学部は情報学部にしぼりました. 理由は, AIの時代で仕事を得るにはAIを扱う側になる必要があるといった, 多くの人から鼻で笑われそうなふわふわした理由でした11.
志望大学は, 調子に乗ってC大学を第一志望にしました. もちろんすぐ落とされます. こういったところは基本, マジの天才しか入れませんから.
第二志望のI大学からは, 面接を受けに来いという連絡が来ました12. 面接の結果, 試験で〇〇〇以上の成績を取ったら入学を認めますということでした. このときの私は飛び上がるように喜んでいました.

結局物理の成績が足りず, I大学には行けませんでした.
結果第三志望のU大学に行くことになりました.

大学1年

総括すると, 全然勉強しませんでした.
学部留学をする人たちというのは, 一般的にものすごい志を持っていて, その目標のために1年目から猛勉強をするものだと思います13. 私はその対極に位置していました. ここで自己発信をするためのプラットフォームを用意していれば, 何らかのつながりができて, 自分で自分を感化できたのかもしれません.
いくら後悔しても戻ってこないのですが, 1年のときはもっとがんばれたはずでした.
努力が圧倒的に足りませんでした. 目的意識が足りませんでした.
具体的にはグループプロジェクトでいきなり開発をすることになったのですが, 結果何もできず, 単位を落としました.
ここがターニングポイントだったかもしれません. ここで自分の実力不足を思い知り, 誰かに相談しておけばなにか変わったのかもしれないです.
ぎりぎりの形でも進級してしまったことが, ある意味間違いだったのかもしれません.
この時点で休学などして基礎を身に着けながらインターンを経験などすれば, 開発に必要な素養が身についたのかもしれません.
他の科目でも, 論理学を除いては散々でした. 果たして, ほんわかした理由で情報科を選んだ自分を責めるべきなのでしょうか.
幸い, このときは周りの学生とのコミュニケーションがありましたから, 精神的に汚染されることはあまりありませんでした.

大学2年

結局, その落とした単位は再履修ということになりました. しかし, 2年次にもグループワークはあるのです. しかも2単位分.
私は複数の開発をかけ持つ事態となりました.
なんとか, 再履の単位と2年次の単位も両方取得できました. しかし, 私は周りに自分の無能さを晒すこととなり, 周りからの対応は1年次と比べて明らかに変わってしまいました.
周りの人はインターンに応募するなどして, 着々と準備を始めていました.
私は何もやっていませんでした.

この時点で詰み度はだいぶ高くなっていたように感じます.
3年が始まる前に休学したい, と親に相談したような気がします.
もちろん反対されました. だってあと1年しか残ってないのですから.
休学するんだったらもと早くやるべきだった, それこそ留年や休学するのだったら, 大学入学前に浪人14という道を選んだほうが良かったじゃないか, とも言われました.
そのとおりです. なにもかもが遅すぎました.
間に合いません. ただ卒業して終わり. このときはそう思っていました.
こんな考えでも, まだまだ甘かったみたいです.

大学3年

もう自暴自棄ぎみになっていました.
振り返りたくはありません. そんな勇気もありません.
卒論にもまったく手がつけられませんでした.

結果的に留年となりました. 周りの人は全員卒業, Facebookでは卒業式の写真が流れてきて, 私の心を抉っていきました.
原因は自分の情けなさです. 自分がクズだということが, 身にしみてわかりました.
家族の一部からは, 金食い虫だと言われたこともありました. 明らかに, 世の一般的な情報科の大学3, 4年生と比べて劣った能力を持っている私は, 自分の存在価値を疑うようになっていきました.

休学中

休学中は, 奇跡的にとある会社のインターンに合格し, とあるシェアハウスに住みながら働いていました.
Javaの経験はありませんでしたが, 基本的にはAndroid関連のタスクを担当していました.
他にインターンに来ている学生の人は皆優秀で, 自分の力不足をこれでもかというほど思い知りました.

また, 低レイヤに興味を持ち出したのも, 大学3年とこのときの間くらいからです.
そんなこんなで1年があっという間に過ぎ去りました.

大学3年(二回目)

まさに今の話です.
落とした単位だけを履修しているので, 前期と後期に1単位ずつ, それに加えて卒論ということになります.

話がずれるかもしれませんが, この年から大学では1年次にCPU実験とコンパイラの講義が行われるようになりました.
私もコンパイラは2年次の後期にやりましたが, 精神が摩耗していてまったく何もできませんでした15.
ご存知かもしれませんが, CPU実験というのはその名の通り, FPGAを用いてCPUを実装するというモノで, 日本でも東大などで行われている模様です.
私も, CPU実験というものが東大にあることを某Podcastで知ったので, そのときはいいなあと思っていました.

不幸なことに, さらに後悔すべきことがありました.
このCPU実験に該当する講義は, 私が2年生だったときにも単位にはならない形で行われていて, 希望すれば受講することができたということです.
一度だけ友人16に誘われて行ったのですが, 当時は興味がなく, そのままスルーしてしまいました.
休学中に昔のHDDをあさっていたら, 当時ダウンロードした講義資料(MIPSグリーンシートやCPUの原理など)が出てきて, なぜやらなかったんだと, しばらく放心状態になっていました.
大学には学部生共用の実験室というものがあり, そこで1年生がQuartus Primeと格闘しているのを羨望の眼差しで見ていました.

卒論も進捗が出ていません.
前期も後期も1単位しかないから, 進捗が前回よりも生まれやすい環境にあるはずなのです.   これでも出ないということは, もう自分の内面に問題があるとしか考えられません.

何ができるのか

こんな私にも, できることはあるのでしょうか.

  • 複数人で歩くときに, 先頭の人と末尾の人が離れ離れにならないよう, みずから進んで中継ノードになる
  • トライリンガル

後者はともかく, 前者はふざけているのかと思われるかもしれませんが, 真剣です. こんなものしか見当たらないのです.

特にゲームを自ら進んでやろうとは思えませんでした. いや, 思わないようにしているのかもしれません.
自分の意志が弱いということは, 自分で一番わかっています. ソシャゲなんかやりだした日には, もう二度と戻ってこれないでしょう17.

私の動力源

常に人と比べて, 比べられて生きてきました. 比較されることがやる気に直接つながっていました.
言ってしまえば, ルサンチマンでしか私は動けないのです.
しかし, これは明らかに両刃の剣です. この方法だと, 圧倒的に高い壁に直面したとき, 心は諦めてしまいます.
世の中には, 自分よりも遥かに若く, 可能性に満ち溢れた有能な人々が多数存在していて, そういう人たちは往々にして, 学生時代から何らかのアウトプットを多数出しています.
そんな人達を見ると, 私は心の奥がチクチクとするようになりました. 本来ならああ, 俺もがんばらなくちゃとなるべきなのですが.
積もりに積もったルサンチマンは, 私の体の中で空気とふれあい自然発火して, 身も心も焼き尽くしてしまいました.

一年に一度, いろんな感情が積もって爆発し, 涙が溢れて止まらないことがあります. きっかけがあれば, 高校の文化祭だろうと, 街中だろうと泣き出していました.
仲間や友達も, 本当にそうなのかと思っています. 上っ面の関係じゃないのかと, 疑うこともありました.
高校生の時に人間関係で失敗したのも, これが原因かもしれません.

好きなもの

生産者としての行動を行ってきていないので, 消費者としての好きになります.

音楽

偏ってますね. 主にIDMとヒップホップに.
これは本当Apple Musicに感謝です.
邦楽も好きです. ガチにわかですが.

野球観戦

どの球団のファンかは言いませんが, 日本にいるときは何回か球場に足を運びました.

最後に

なんだかたらればの多い, 弱々しい文章になってしまいました.
二度と帰ってこない過去に私は決別できるのでしょうか.
インターネットで調べると, 過去の後悔はそれが当時の自分ができたマックスだと考えて諦める, というのをよく目にします.
いや, あんなのがマックスなんですか? 世界中のCS学部生から鼻で笑われますよ.
しがらみからは, まだまだ逃れられそうにありません. 誰が私を救済してくれるのでしょうか.
果たして, 未来の自分は自分を救済できるのでしょうか.
与えられた環境に対して, それに見合った結果を出していないんですよ.

絶望的に友人がいません.
皆さんの中には, 地元やクラスタというものがあって, そこには昔からの友人が住んでいてたまに話したり遊ぶ仲かもしれません.
そういうのが私にはありません. アクティブな人との関わりが存在しません.
どうすれば友達というものがつくれるのでしょうか.

あといろいろ事情で, 年末は日本に行きます18.
稚拙でダメダメな文章をここまで読んでくださって, ありがとうございました.
この文章は一部 後悔の多い大学生活を送って来ました - とても上品な日記 に感化された部分があるかもしれません.
あちらのほうが出来は何十倍も上ですが.

お願い: 中の人を特定された方は, どうか晒さずに, 私にFacebook Messengerでご連絡ください. お願いします.


  1. ZWJ(Zero Width Joiner)だったり, tt0__0ttだったりしました

  2. 彼がどう思っているかはわかりませんが, 本人には今でも本当に申し訳ないと思っています.

  3. 間違えていたら許して.

  4. 大学生活というものを, 入学前の最初から諦めていた人だけが私に石を投げてください. 宛先は

  5. 12月から通わす計画だったので, 実質7月までの半年と少し.

  6. 勲一等すねかじり大綬章

  7. それまでは猫も杓子もmixiでした. 私はやってませんでした.

  8. インターネットの /dev/null にはたくさん書き込んできましたけどね.

  9. いろいろ間違っているかもしれませんが, 私自身が体験したことを書いています.

  10. 自分が大学に入って何をやりたいかなど.

  11. 結局今の研究内容にAIは関係ありませんでした.

  12. 英国の大学で面接を行うのはO, C, I大学とあと数えるほどだと思います.

  13. 留学生のブログなど見ると基本そうです.

  14. ギャップイヤーという言い方もします.

  15. 合格点ギリギリで単位取得した.

  16. 当時いた数少ない友人でした. 日本語も話せる, ポケモン好きの中国人でした.

  17. 他意は決してないです.

  18. 12/25のJL44便で僕と握手